2012年3月11日日曜日

『気流の鳴る音』を読んで


カルロス・カスタネダがヤキ族のドン・ファンから学んだ話を解説する形で進んでいく話なのだけれども、荒木飛呂彦の『スティール・ボール・ラン』と関連する点が多いなと感じながら読み進めた。ヤキ族の考え方から学ぶという形で、4つの敵として描かれる「恐怖」、「明晰」、「力」、「老い」を克服してゆく考え方が丁寧に描かれている。共感するところが多くて、ぼんやりと考えていたことをすっきり整理できそうだったので、考えがてらまとめてみた。

明晰

「明晰」さという概念はすんなりとは敵とは考えにくい。一度世界をとらえた「明晰」さから手を離すことで得ることが出来るのが本当の〈明晰〉さで、一度手を離さなければならないという点で「明晰」さは敵になる。きっと、こういうことだろう。初めてのカードゲームをやるときはルールを学びつつ、ゲームに勝てる方法を獲得していく。最初の「明晰」さを獲得する。ゲームの回数を重ねていくうちに別の規則に気づき、今までの方法に新たな方法を追加・削除して今まで方法を更新して新しい方法を獲得する。既存の「明晰」さを捨てて、新しい「明晰」さを獲得する。「明晰」であることは楽で、既存の「明晰」さを疑いつづけることは疲れるだろうけど、常に疑い続けることが〈明晰〉さなのかなと思う。ドン・ファンの言う、〈トナール〉が「明晰」に対応して、〈ナワール〉が〈明晰〉に対応しているかな。

力と老い

〈明晰〉であろうとすると、いずれの「明晰」も選べなくなってしまう状況が発生してしまう。この発生してしまうことこそが、敵としての「力」だ。そして、たぶん〈コントロールされた愚かさ〉と表現されているものがこの問題を解決してくれるもので、愚かだとわかっていてもいずれかの「明晰」さあえてを選択しなくてはならないということになるのだと思う。
敵としての「老い」の意味はそのまま。老いの克服は、〈心のある道〉を進むことだ。〈心のある道〉を進んでいれば、最後につくところに何もなくても納得することが出来る。いや、到着点ではなく、道の途中こそが目的となるといったところかな。

なんかまとめたらすっきりした。やっぱり『スティール・ボール・ラン』の随所に関連する点がある気がする。ちょっと読みなおしてみよ。

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