2012年3月31日土曜日

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んで

少し前に仕事の谷間で四連休になったときがあった。休みの前までは仕事が忙しかったのでなかなかまとまった休みが取れていなくて久しぶりにゆっくり休めるという予定だった。一日目、二日目は寒さのせいもあって家で本を読んだり、映画を見たりして過ごしていた。だが、三日目あたりからどこかに出かけたいなという気持ちが芽生えてくる。天気予報を見ると明日は雨みたいだけれど、かねてから行ってみたかった三崎口に行ってみることにしよう。

そんな気持ちで行った三崎口は、辛かった。バスで終点の城ヶ島で降りると、ほとんどの商店にはシャッターがおり、降りつける雨に外を歩く人は誰もいない。この結果はわかっていたはずなんだけど、天気の良い別の日に延ばす選択は出来なかった。たぶん、三崎口に行かず家でじっとしていたら、雨の辛さとは別の辛さ、退屈という辛さを味わっただろう。だからあの日はどちらもバッドエンドのはずだ。

『暇と退屈の倫理学』では、ハイデッガーによって分類された3つの退屈を確認していく。あの日、三崎口に行かなかったときに家で感じる退屈さが、第1形式の退屈に当たるだろう。時間はあるけど、やりたいことができなくて退屈している、暇で、退屈している状態だ。三崎口に行ったときには、まだ『暇と退屈の倫理学』を読んでいなかった。家にいたら、この第1形式の退屈に襲われると経験的に察知して、雨の中、気晴らしに三崎口に向かった。
もしも向かった先で退屈を感じていたら、それが第2形式の退屈になっただろう。雨で辛かったけれども、おかげで退屈する暇もなかった。いや、暇がなくて退屈しているというのが第2形式の退屈なので、暇がないのは退屈しない理由にならないか。大きな視点で見れば、三崎口に行くこと自体が暇つぶしなのだ。この第2形式の退屈は、暇と気晴らしがからみあっている。例としてあげられていたパーティーの退屈は似たような経験がある気がする。パーティーはとても賑やかで楽しかった、でも退屈していたという例だ。丁寧に準備された暇つぶしをしているのだけれど、退屈してしまう。

最後の3つめの退屈は「なんとなく退屈だ」の一言で定義される。これはもう、三崎口に行った行かないの問題ではない。

四連休の最初の一日目、二日目、三日目は家で本を読んだり、映画を見たりしていた。宇野常寛・濱野智史著『希望論』を読んで、ベン・アフレックの『ザ・タウン』と黒澤清の『ドッペルゲンガー』を見ている。まだまだ読む本も録り貯めている映画があるんだから、四日目の雨の中無理をして出かけたりせずに、家で映画を見ていたほうが良いのはわかる。でももう本にも映画にも退屈しているんだ。本を読むのに飽きて、どこかに出かけたくなってしまっている。
今の(映画や本を見たりする)環境に飽きてしまって、他の(どこかに出かける)環境に移りたくなる。それを「1つの環世界にはひたっていられない」と表現している。1つの環世界にひたっていられないから退屈するというわけだ。

3つの退屈の形式を定義したハイデッガーは、環世界を認めていないようだ。環世界は人間以外の動物が感覚する世界で、人間は自由だから環世界は関係ない、と。そのハイデッガーの第3形式の退屈への対処方法は、決断。その問題点も『暇と退屈の倫理学』で指摘している。
四連休の中で、同じことをずっと続けていると、どうしても飽きてしまうから他のことをする。飽きてしまうのだけども、映画を見ているとき、本を読んでいるとき、三崎口に行っているときのそれぞれでは退屈していない。なんだかこう書くとものすごく当たり前のことを言ってるように思えるけど、これで間違いない。興味のあることに、とりさらわれるのを、待ち構えている。

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