2009年2月21日土曜日

いつかソウル・トレインに乗る日まで

どれくらい小説を読んでいなかったか、覚えていないほど読んでいなかった気がする。


 一年以上ぶりに小説を読んだ。長い休みの後に読書を再会するなら、小説の読み方を思い出すために、よく知っている小説家を選ぶ必要があると思っている。迷いなく、高橋源一郎の最新作を選んだ。
 あまりに久しぶりの読書なので、本を間違えたのかと思った。本を読んでいる最中に、著者を確認したのは始めてだ。でも、本は間違っていなかったし、カバーだけが入れ替わっているということもなかった。きっと以前のように本を読んでいても、これが高橋源一郎の小説かどうか、同じように確認しただろう。

 この小説は、少し前に出た評論『ニッポンの小説 百年の孤独』とほぼ同時期に連載されていた。それを思い出して、パラパラとめくっていたところ、こんな文章にぶつかった。
その世界を、「外部」を読み解くために、小説が存在しているのであって、小説を、あるいはテキストを読むために、世界が存在しているのではない。そう、わたしはいいたいのです。(51)
 小説の中には、小説内小説といえるようないくつかの小説が存在している。どれもとても似ているような気がして、それと同時に小説の主人公のその後も考えてしまうようなところがあって。それら、考えてしまう主人公の「その後」こそ、ここでいう「外部」なのかなと思った。

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